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開拓魂 開拓スピリッツ bP 十和田市 三上寛

2.新渡戸稲造 魂の原点 青森県十和田市三本木稲生川の歴史 新渡戸記念館資料より

開拓魂 開拓スピリッツ bP 十和田市 新渡戸記念館 三上寛

いつの時代かわからないが、作助という百姓が盛岡から鍬一本かついで来て切り拓いた、という伝説がある。

 

ところは現在の(青森県)十和田市の元町あたり。古くはその北側に根元から三本にわかれた「白たも」の大木があった。人はこれを三本木と呼び、後に土地の名として長く根付いた。

 

三本木は十和田湖の噴火で形成された火山灰土壌の扇状地帯で、荒漠たる平原だった。馬の放牧地帯で人の居住にあまり適さなかった。樹木が生えにくく、暑い夏は日に晒され、太平洋から冷たい「やませ」が吹き冷害を起こした。冬は西北からの「八甲田おろし」が吹雪となり、多くの凍死者を出した。

 

旧三本木、現在の十和田市は青森県内有数の米どころで農業を基盤として発展し現在人口約六万六千人と県内第四位の都市だが、その生命線は「稲生川」だ。市の中心地稲生町とともに、幕末におこなわれた三本木原開拓により造られた人工河川である。

 

開拓魂 開拓スピリッツ bP 十和田市 新渡戸傳

その開拓を指揮したのが、南部盛岡藩士・新渡戸傳である。

 

当時南部盛岡藩は三本木を含め広大な地域を有した。しかし度重なる凶作や、蝦夷地警備等のため財政が逼迫し、農民の生活は悲惨なものだった。藩の建て直しのため新田開発は重要な課題だった。そして遂に安政元(一八五四)年「十ヶ年士の制」を施行した。
これは、格下の武士から身分と家禄をとりあげ、十年の猶予期間内に新田開発で成功した者や学問や武芸で認められた者だけを、再び藩に召し抱えるという制度だった。十ヶ年士の対象となった者たちはなんとか開拓に成功しようと、当時既に幾度もの事業を成功させ「開拓のエキスパート」と目された新渡戸傳のもとに集まった。

 

 

写真:新渡戸傳(1793−1871)左。右は従者。

 

傳はそれらの人々や同じ志の商人たちと協力し、若き商人時代から構想していた三本木原の大規模開拓計画を実行に移す決意をし、安政二(一八五五)年四月、開拓願いを藩に提出、八月に許可され三本木新田御用掛となり工事に着手した。実に傳六二歳であった。

 

広い三本木原に田畑が少ない一番の原因は、周辺の川が低地を流れていることだった。一番差のある所では奥入瀬川より三〇mも高い。

 

傳の計画は、奥入瀬川の上流に遡り、水の取り入れ口を設け、途中穴堰(トンネル)を通して水路をつくり、広い台地上で大規模に開拓を行うことだった。
安政二(一八五五)年9月、工事に着手し、計約四一六〇mの二つの穴堰と約七・二qの陸堰を掘りぬいた。上水工事は、途中勘定奉行となり江戸詰めを申しつけられた傳に代わって嫡子・十次郎が指揮をとった。

 

そして安政六(一八五九)年五月四日、ついに約四年の歳月をかけて三本木原への上水に成功した。川は翌年南部利剛公より「稲生川」と命名され、現在もこの名で親しまれている。

 

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約150年前の三本木開拓により切削された人工河川「稲生川」。

現在では太平洋まで続く総延長70kmとなり、田畑に命の水を運ぶ。

 

十次郎は傳の開拓の構想をさらに拡張し、区画整理を中心とした近代を先駆ける雄大な都市化計画までを考えた。
これは、十次郎、傳亡き後、長く実現されなかったが、戦後、街割りと道路計画をほぼそのまま踏襲する形で十和田市中心街が整備され、現在に至る。

 

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稲生川上水成功の翌年万延元(一八六〇)年、三本木原開拓地域で初めて米四五俵を収穫した。

 

その二年後の文久二(一八六二)年八月三日に十次郎の三男が盛岡で生まれた。開拓地域で初めて収穫した稲にちなんで「稲之助」と命名された。
この子どもは後に改名し、国際連盟の事務次長として国際親善に尽力し、日米間の融和に大きな足跡を残した。

 

「太平洋の橋」として著名な農学博士、法学博士の新渡戸稲造、その人である。

 

写真:新渡戸稲造(1862−1933)

世界的名著「武士道」

Bushido: The Soul of Japan(1900年)は

時代を超えて読みつがれている。

写真提供:十和田市立新渡戸記念館

 

開拓魂 開拓スピリッツ bP 十和田市 新渡戸記念館

開祖新渡戸傳の長男十次郎の近代都市計画が反映される美しい碁盤目状の町並み。

写真提供:十和田市立新渡戸記念館

 

 

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十和田市の、未来、を見つづける傳翁像

三本木原への上水に成功した安政6(1859)年5月4日を記念して、毎年5月4日に太素塚において十和田市挙げて「太素祭」(太素は傳の号)が盛大に行なわれている。

 

資料提供・監修:十和田市立新渡戸記念館

 

現在の新渡戸記念館と太素塚
十和田市の中心の東側に位置する太素塚。太素とは開祖新渡戸傳の号で、塚はその墓である。傳と、その嫡子の十次郎、孫にあたる稲造が銅像と共に祀られている。境内には新渡戸記念館があり、開拓に関する資料と伝来の武具、兵法資料と稲造博士の遺品、直筆の書などが展示されている。
開拓魂 開拓スピリッツ bP 十和田市 新渡戸記念館
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写真:北村裕昭

 

 

 

 

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